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拝啓 吉井さま

拝啓

吉井歳晴さま

昨日は電話にて大変失礼いたしました。

今月26日に開催予定の「(仮称)木村松本+ v.d.o オープンハウス+講演会+討論会」において、モデレーターの役目を引き受けてくださり、ありがとうございます。

電話でもお話しましたとおり、これから継続的に仕掛ける予定のこうしたイベントの目的は、私と私の周辺のクリエイター(これを簡単に言えば「福岡」というのかもしれません)にウイルスを注入する作業です。

ウイルスですので、注入された全員がそれによって直接的に発症するとは限りません。しかし、全員が確実にキャリアーになるわけで、日々行われる議論の中に共通の要素として必ず潜ませることが可能です。

数ヶ月前に訪れた藤村龍至は、まさにウイルス的存在でした。そして、10月には窪田勝文という大ウイルスがやってくる予定です。

福岡派などという言葉に興味は無いのですが、身近な友人・先輩方と、共通のウイルスに侵されながら議論ができる環境はぜひとも構築していきたいと考えています。

今回、ウイルスは木村松本という若い建築家ユニットです。僕は吉井さんにもウイルスそのものになっていただきたかったのですが、ご希望は、木村松本ウイルスを効果的に注入し、様々な化学反応を促す科学者のような立場に徹する、ということでしょうか。

今回、もう一人の福岡側ホストである清原氏(atelier cube)とも話したのですが、講演会と討論会のテーマは、上記イベントの趣旨をご理解いただいた上で、吉井さんにご提案いただけないでしょうか。

まずは、今回のスピーカーである木村松本について福岡の作品を中心に僕なりの感想を述べさせていただき、次に福岡という地域について記述しながらキーワードを挙げていきたいと思います。木村松本を肴に、福岡の現状を斬れると、エンターテインメント性も高まるかと思います。

■木村松本

先日、大阪から現場監理のために来福するタイミングに合わせて、木村松本の福岡における初シゴトを拝見する機会を得ました。まだ工事の途中でしたが、足場もはずれ、内装もほぼ終了していて、全貌が十分に判る状態でした。

木村松本両氏とは、以前二回ほど福岡でご一緒させていただき、酒を飲みながら彼らの考えを聞かせていただきましたが、雲のようにフワフワとしていて、正直言ってよく理解できず、ただ、色々と真剣に考えているのだなぁということだけは判りました。

福岡の作品についてもスライドなどを用いてプランや思考のプロセスを聞かせてもらいましたが、モノのレベルでは面白そうだということが理解できても、それを説明するコトバの世界においてどうしても理解不能な状態に陥ってしまうのでした。

そんな彼らに、僕の仕事を見せると

「聡君の作品にはクライマックスがあるねぇ。」

と言うのです。これが、恐らく褒めコトバとして言っているのではないな、というのは言い方や雰囲気から判りました。彼らは、クライマックス(見せ場?もしくは最も強い空間性が生じるところ?)を拒否して、僕を「くさして」いるのです。

「クライマックス」の良し悪しを議論するのは保留するとして、彼らがなぜそれを拒否するのかとても興味が沸いたし、クライマックスを消去することでどんな空間が創れるのか見てやろうじゃないか、という少し意地悪な感情を抱きました。

tutuji

今回、tutujiと名づけられた物件の現場を見せていただいて、ようやく彼らの謂わんとしていることが自分なりの解釈で理解でき、そしてかなりの衝撃を受けました。

敷地は、日本全国どこにでもあるような住宅団地にあります。北側の道路以外の面は全て隣地で、ごくごく普通の住宅が密でも疎でもない、中途半端な間隔で立ち並んでいます。道路に面する以外の壁に、電気温水器や室外機が無頓着に設置され、窓も内部からの論理のみで決定されているのは間違いなく、美しくあろうということは完全に放棄している、the日本の住宅地!なのです。

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僕であれば、恐らく隣家の存在はそこからの視線も含めて「醜いもの」と断定し、いかにこちら側の視線から排除できるか、というところに注力すると思います。もしくは、それらが存在感を失うように、木村氏の言葉を借りれば「クライマックス」な状態もしくは要素をこちら側に作り出して醜いものから視線をそらさせようとするでしょう。それは僕に限らず、多くの建築家が行っている作業だと思います。

しかし木村松本は、全ての要素について良い悪いの判断を保留もしくは停止し、全てを等価に扱うのだと主張しています。「全てを等価に扱う」なんて言葉は、確か西沢さん辺りが言い出して、みんなよく判らないけどなんとなくかっこいいな、という感じで使い出したのを記憶しています。そして、そんな言葉を使う人を僕はあまり信頼しないようにしているのでした。それを、じゃあカタチで証明してみろよ、というのが正直なところだったのです。

しかし悔しいことに、木村松本はある一定のレベルでこの「全てを等価に扱う」ことによって作られる心地よさを作り出していると感じました。

道路線もしくは敷地線を手がかりに配置されている周辺の建物に対して、この建物は7度振れています。これは、東西南北というオリエンテーションに乗せた結果だそうです。そして、各壁には、比較的大きな窓が穿たれています。この結果、周辺の建物の側面や裏側が、無遠慮にインテリアに取り込まれます。しかし、7度振れているために、それらに正対することなく、微妙なズレが生む心地よい共存が生じるのです。隣家と隣家の間にある空地は、視線の抜けとしてインテリアの一部に取り込まれます。

7度という振れと、窓の穿ち方、どちらが強く作用しているのか、それとも両方なのか判りませんが、彼らのとてもシンプルな操作によって、彼らが「小さな建物」と呼ぶ電気温水器や室外機、放り出されているタイヤや、勝手口の横に置かれた木製のゴミ箱さえ、なんだか愛らしいオブジェクトに見えてきます。
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隣家に、西日によって作られる自分の屋根形状が影が映りこみ、「小さなおウチ」ができているのを発見した時、全てが等価に扱われている状況・・・西日さえも、屋根さえも、隣家さえも・・・を発見して興奮しました。(それは言いすぎかな)
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ハウスメーカーやディベロッパーが作り出す住宅地が美しくないことは間違いありません。そして、無造作に露出している設備的なモノがデザインという言葉から遠いところにあるのは間違いありません。しかし、それらを一度きちんと引き受けて表出させる木村松本の作品は、実は日本の住宅空間に対して批評的だと思うのです。

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ここまでは僕なりの解釈でして、この理解だけでも僕にとっては十分な収穫でした。しかし、実は彼らにはその先があるようで、今度は「建物は消えても良い」といった類のことを言い出しています。これはどうやら、人間の身体や意識に対する作用というものへの興味を示しているようです。例えば、二階リビングの切り妻状の天井が彼らにはクライマックスに映るらしく、キッチンやトイレが組み込まれたボックスの存在を操作して、懸命にそれを消そうとしているのです。

自分で作っといて消そうとするなんて・・・それこそクライマックス的思考なんじゃない?なんて突っ込んだりもしたのですが。
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クライマックスの拒否は、彼らが抱く身体と空間の理想的な関係性に繋がるのでしょうか。この部分は、僕の感性がまだ未熟なのか、彼らの言語化が下手なのか、建物が完成していないからなのか、いまだ理解不能です。しかしとても興味深い部分です。
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木村松本について、始まったばかりの付き合いの中で僕が見出したいくつかのキーワードがあります。(もちろん吉井さんのほうが身近に接されている中でもっと沢山抽出できるかもしれません。)

・アンチ・クライマックス主義者
・=全てを等価に扱う
・身体と意識への作用への興味

キーワードを抽出したところで、今回はキーボードから手を下ろそうと思います。

(続く)

Comment [1]

井上さま
先日は「tutuji」のトークセッションお疲れ様でした。
当日の印象は、吉井さんの巧みな言葉と井上さんのクールな司会と建築を熱く語る皆さんの情熱を感じて、最後まで飽きることがなかったと言うことです。
今回のブログも大変興味深かったです。
最後まで一気に読めました!

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